衝突系では、カオスは球対称モデルであってもいたるところに現れる。
古典的な3体問題が、前にみたように「初期条件が非常に近い軌道が非常に速 く離れる」という意味でも、また運動の積分がないように見えるという意味で もカオスになっている。 もうちょっと一般的にいってた、一つ一つの粒子の 軌道を見る、あるいは 次元の 空間での系の軌道を見ると、そ れは必ずカオス的であるということがわかっている。
一見、このことは無衝突系は(例えば球対称なら)カオス的ではないとさっき断 言したことと矛盾するように見えるので、まずカオス的であるということの意 味を考えておこう。
各粒子の軌道そのものは、リヤプノフ指数が正で、その時間スケールが自由落 下時間 の数分の一程度であるという意味でかなり 強くカオス的であるか。これは、大雑把にいえば有効数字が あたり1桁程度減っていくということであり、従って 10 も たてば初期条件の精度が 64 ビット浮動小数点数の有効数字だけあったとして も、最終状態での個々の粒子の位置の精度は10桁落ちて 5-6桁しか残っていな い。つまり、2つ全く同一な系で、1つの粒子だけ初期条件の最後の1ビットだ け変えて計算を始めたとして、10 程度でそのずれが 倍にも増幅されるわけである。
これは、力学系自体の性質なので、例えば数値計算の精度の問題ではない。どれほど数値積分を正確に行なっても同じ ことである。球状星団や散開星団の進化の計算では、数千から数万クロッシン グタイム程度の長さのシミュレーションを行なうが、その後で各粒子の位置が 意味を持つためには計算精度が数万桁いるわけである。そんなことはできるは ずがないので、多体シミュレーションでは必ず個々の粒子の位置は「正しく」 ない。
このように指数関数的な成長が起きるのは、難しげにいうと 空間 ( 次元位相空間)での軌道が双曲的であるからということになるが、も ちろんこれは指数関数的に広がるというのの言い替えでしかない。具体的にミ クロスコピックにみてどうやって広がるかというのを見てみると、これは結局 他の粒子と近接遭遇した時に軌道間の距離が拡大される傾向があるからである。 2次元の時のイメージを下に示す。
10cm
ここで、細かい人は 3次元だと紙に垂直な方向では軌道が縮んでいるの ではないかと思うかもしれない。軌道のずれの1次(線形)の分だけをとって 計算するとそうなるが、ここでは実は2次の項の分が効き、そちらは拡大する 方向に働くのである。
このように初期条件の差が指数関数的に成長する時間スケール (大雑把にいって最大リアプノフ指数の逆数程度)と、系が熱力学的に緩和す る時間スケールとの間にはなんの関係もないことに注意して欲しい。実際、熱力学 的に緩和する時間スケールはほぼ粒子数に比例するのに対し、指数関数的成長 の時間スケールは粒子数に無関係に一定なのである。さらに、指数関数的成長 を担うのは、上に述べたように比較的近接した粒子同士の相互作用である。具 体的には、距離が の程度のものの寄与が最大であるというのが少し計算するとわかる。この程度 の距離まで粒子同士が近付くのはクロッシングタイムに1度程度であり、これ は粒子数 に無関係である。これに対し熱力学的緩和を担うのは か ら までの全ての粒子との相互作用であり、従って近距離でのポテンシャ ルの形をすこし鈍らせることで、熱力学的緩和の時間スケールをあまり変えな いで指数関数的成長の時間スケールのほうは非常に長くすることができる。
ここでよろしくないのは、熱力学的緩和とは「系が初期条件を忘れるこ と」であり、また、初期条件の微小なずれが指数関数的に成長することがまさ にその「忘れる」ことであるとなんとなく思ってしまうことである。
少し思考実験をしてみよう。今、非常に粒子数が大きい系を考え、そのなかで、 ある位相空間の微小体積を考える。熱力学的緩和によって初期条件を忘れると は、基本的にはその中にある粒子が系分布関数全体(というか、まあ、とにか くある程度の広さ)に広がるということであろう。それらが依然としてどこか に固まっていれば、緩和したとはいい難い。では、指数関数的な成長でこの微 小体積をどのように変形できるのであろうか?配位空間での大きさが、上の よりも小さいうちは、空間の少なくとも1方向に向かってはほぼ 指数関数的に伸びていく。これは、他の粒子との散乱が基本的にはコヒーレン トであるからである。つまり、微小体積の大きさに比べて散乱のインパクトパ ラメータが大きく、微小体積のなかの各粒子の軌道は基本的には同じように曲 がる。同じように曲がるので、その差を考えると散乱するほうの粒子に近いほ うが大きく、遠いほうは小さく曲がり、差が指数関数的に成長できるのである。
逆に、どんどん延びていってある1方向に対して長さが を超える と、散乱のインパクトパラメータに比べて微小体積のほうが大きいような散乱 が頻繁に起きることになる。このような散乱では、上の場合のように線形に微 小体積が引き延ばされるというような簡単な話にはならない。むしろ、長さが よりも十分大きい極限では、各粒子がどのような散乱を受けるか というのは他の粒子とはほとんど無関係になる。もちろん、非常にインパクト パラメータの大きな散乱に対しては依然としてコヒーレントなわけだが、それ による指数関数的成長の時間尺度はインパクトパラメータが大きくなるにつれ て急速に長くなる。こうなると、各粒子間の距離は指数関数的には広がり得な い。散乱が無相関である極限では粒子間の距離は拡散的に広がることになる。
そういうわけで、指数関数的に軌道が広がるといっても、それはせいぜい 程度の距離までである。そこから先は拡散的なので、平均的に は に比例して距離が広がっていくということになる。
このため、粒子数が無限に大きい極限を考えると、軌道間の距離が指数関数的 に成長できる領域が無限に狭くなるので、極限では軌道は regular と思って よいことになるわけである。
もっとも、これは依然として「粒子の位置がどこかわからなくなる」というこ とを意味することに変わりはない。拡散的になってしまうというのは、要する に本当にランダムになってしまうということである。もちろん、原理的には決 定論的なハミルトン系なのでランダム性なんてものはどこにもないが、しかし、 非常に近くにある2粒子の距離が、まずは指数関数的に、それからはランダム・ ウォーク的に広がるわけである。繰り返しになるが、これは物理的な系のもと もと持っている性質であり、数値計算で有限の精度でやるからそうなるとかい う問題ではない。
このことは、衝突系の体数値計算には厳密な理論的裏付けがあるわけでは ないということを原理的には意味しているとも考えられる。「統計的な性質」、 例えば熱力学的な進化は「正しく」表現していると一般的には信じられている が、厳密に数学的にそうかというと難しい問題なわけである。