父が 8月21日に亡くなった。長男ということで色々あったが。なんとなく思い
出的なことを書いておく。
父は 1930年11月30日、大連で生まれている。祖父は当時大連で満鉄の下請け
問屋のようなことをしていたと聞いている。店と住居は一体だったのかな?大
連のかなり中心部に近いところに住んでいたらしい。
終戦後引き上げてきて、小倉で祖父は東洋陶器(現在はTOTO)の下請け問屋を始
めた。父は九大工学部で修士までいったあと、神戸製鋼の子会社の神鋼造機に
就職、開発部門にいたと聞いている。神戸製鋼の子会社ではあるが神戸ではな
くて岐阜県大垣市にある。市の中心部からは少し外れたところにあり、従業員
の多くが社宅に住んでいた。なぜか小学校の学区が飛び地になっていてバス通
学だった。70年に自宅を建てて社宅をでたので、小学校は変わり徒歩通学でき
るようになった。
祖父が75年に亡くなり、その前後から
祖父の事業を引き継ぐために神鋼造機は退職したので、神鋼造機にいたのは
20年ほどだろうか。1960年頃には社長のおともか何かで長期のヨーロッパ出張
もしており、社内では割とエリートだったようである。
とはいえ、ほとんどそういう話はしなかったのであんまり良く知らない。子供
の側から父親をみると、教育熱心というか、色々なものに触れる機会を与えて
くれたこちらから見ると非常に理想的な親であった。色々なもの、というのは
具体的には模型飛行機(ライトプレーンの他タイガーロケッティとかマブチの
空中モーター(という名前だっけ?)とか、模型グライダーとかUコン飛行機)、
電子回路(5球スーパーのキットとか)で、基本的に完成品ではなくて作るもの
を与えて作り方の指導とかは一切しないで放置する、但し危険なものはちゃん
と付き合うか母親に付き合わせる、という感じであった。
ただ、5球スーパーは私の配線ではちゃんと動作するところまでいかなくてな
んか直してくれたような気が。
あと、月に何度かは週末に名古屋の丸善にいって自分は専門書をみたりして、
本であれば割となんでも買ってくれ、また家族で京都に日帰りでいくことも多
かった。姉が60年、私が63年生まれだが、姉が生まれる前に自家用車をもつよ
うになっており、またカメラも色々なものを買うのも好きで(ニコンS2の他い
くつかのコンパクトカメラのあと、ニコンEM ももってた気がするが私が一番
憶えているのはローライである)、白黒フィルムの現像・焼きつけは母親に手
伝わせて自宅でやっていた。また、8mm もやっていて姉や私が小学校に上がる
前くらいのものは実家にまだ残っているはずである。どっかの時点でビデオテー
プにしてたかな?
私は中学受験して東海と灘をうけて、たまたま灘も合格したのでそっちにいっ
た。中学2年の時にその時高校3年だったK先輩がいた物理研究部「模型班」
にはいって、室内機、ハンドランチ、競技フリーフライト等色々なことを教わ
り、これは学部卒業まで私の生活の大半であった。大学院からはまあ研究が
趣味みたいになるわけで模型飛行機まで手が回らなくなって現状にいたってい
る。