現実世界における科学者の役割は --- 「科学」1998/5号巻頭言への疑問

牧野淳一郎

  本誌1998年5月号の巻頭言“推論的世界での思考法”では,環境問題に代表されるような現実の問題に科学者がど のようにかかわっていくかということに対する主張が述べられていた.大意は以下の ようなものであると思われる.

環境問題がおこっている現場では,自然科学的側面だけでなく,経済,政治,社会,歴史をも包含した当該地域の環境政策が緊急に必要とされている.しかし,政策決定に必要な科学的論拠が十分に示せないことがある.そのような場面でも,自然科学者,社会科学者の双方に発言が求められている. そのような場面では,科学者の発言といっても論拠は1割,“推論”が9割ということもある.推論といえば聞こえはいいが,この実質はほとんど経験的直感とでもいう べきものである.

しかし,自然科学,社会科学を問わず,どの分野においてもこのような経験的直感の世界で正しい判断ができる研究者がいる.現実は多くの推論を使わざるをえないのだから,このような人たちの思考法を従来の知の体系とは異なった次元の新しい科学論として学ぶ必要がある.

このような主張には大きな問題があると感じた.科学者の役割とはいったい何なのだろうか.確かに,環境問題においては,多くの場合,政策決定に寄与できるような科学的判断をするためのデータを得るのが現実的には困難であろう.しかし,だからといって,科学者が“直感”に頼るなどということが許されてよいものだろうか. 仮に,単なる偶然ではなく本当にそのような“正しい直感”なるものをもつ人がいるのだとすれば,その人の判断過程,すなわち使っているデータと結論の関係を科学的分析の枠に乗せることは,ある程度まではできるはずである.科学者が,そのような努力をぬきにして,“従来の知の体系とは異なった次元の新しい科学論”とか“自然科学と社会科学を融合させた,知の世界”といったものを夢想するのであれば,それは,科学者としての知的努力の放棄である.

温室効果による温暖化の問題,環境ホルモンの問題などの例をみてもわかるように,環境問題においては結果の予測が困難であるにもかかわらず,非常に大きな影響をもたらす可能性があり迅速な政策的な対応が必要とされる場合がある.しかし,だからといって根拠1割の直感に走ることが科学者の役割なのだろうか,という疑問を持たざるをえない。

環境アセスメントなどにおいては科学的には慎重な判断(例えば“確実に危険があると断言できるわけではない”といったもの)が,“科学的には危険があるとはいえない”に置き換わり,さらには“専門家は安全であると判断している”というものに変わったりする事例も耳にする.こういったことはもちろん問題であり,科学者は自分が提供した情報がどのように利用されているかということに無自覚であってはならないことはいうまでもない.

むしろ,現在の環境アセスメントなどでは,判断するだけの根拠がないのに判断してしまっているということこそが問題なのではないだろうか.十分な材料がないところで無理矢理に結論をだせば,やる人の“直感”や“推論”によって答は変わる.つまりは,科学者の立場によって違う答がでてくることになる.このようなことが現実に問題をおこしていることは,いちいち実例をあげるまでもなく周知のことであろう.

では,科学者,技術者に,今何が求められているのだろうか.科学者や技術者が,今まずおこなうべきことは,科学的,工学的にいえることはどこまでかということを社会に対して示すことではないだろうか.もちろん,確実に危険があるともないともいえないわけで,それでは現実の判断の役に立たないという批判があるかもしれない.

しかし,結局のところ,科学者の提供できるものは,判断そのものではなく判断のための材料でしかない.なにが望ましいかという判断は,不確実性からくるリスクも含めて,実際の当事者がするべきものなのだ.その材料をていねいに提供することこそが,いま,科学者に求められている知的努力だと思う.