駒場から本郷に移って4年になる。1990年4月から4年間教養学部情報図形科学教室で助手、その後99年まで助教授、99年から理学系研究科に来た。学生の間は教養学部基礎科学科第二から総合文化研究科に進み、ずっと駒場だったので、都合18年駒場で過ごしてから本郷に「進学」したことになる。
駒場から本郷に来ると、実に様々なことで勝手が違ってとまどう。郵便物の出しかたのような細かなことから、研究費の使い方、教授会の進みかた、およそ思い付く限りのことが違っている。これが同じ大学とはなかなか思えないほどである。
その中でも大きな違いは、やはり講義・会議の数である。具体的な数字は省くが、例えば理学部と教養学部では所属教官の数は2倍も違わない(教養学部のほうが多い)のに、学生は教養課程は3000人、理学部に進学するのは300人で10
倍違う。このことが一体どれほどの違いをもたらすかは、なかなかここに書き切れるものではない。が、ここでは、駒場の教官は負担が大きいとか、そういうことを問題にしたいわけではない(もちろん負担は大きいわけだが)。問題は、前期課程の学生に東京大学が提供している教育の質である。教養学部の教官は非常に努力していることはいうまでもない。しかし、学部の4年間を東大で学ぶ学生にとって何が良いかという観点から見た時、前期課程を担当する教官の数と後期課程を担当する教官の数が大きく異なる現状は最適解から大きく外れている可能性が高い。
教養学部は10年前に大きな教育制度の改革を行い、今また進学振り分け制度の変更等が議論されている。しかし、学生にとって真に意味のある改革をするためには、いくつかの「暗黙の前提」を外す必要があるのではないだろうか。
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