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0. はじめに (2011/8/11)

今日、2011年 8 月 11 日に、河野直践氏の告別式がありました。

河野さんは私の一つ上、1980年東大文科I類入学です。私は1981年入学の理科I類 であり、初めて河野さんをみたのは、駒場の全学共通ゼミナールの1つとして 開講されていた、理研の槌田氏と一橋大学の室田氏による講義にでた時だった はずです。

全学共通ゼミナールは、基本的には東大(駒場と限らない)先生が駒場の1-2年生 向けに色々な講義をする、というもので、まあ、先生のほうから見ると自分の 学科の宣伝、学生から見ると進学のための情報収集的なところが多いのですが、 その中に「学生が提案する自主ゼミ」というのがいくつかありました。これは、 学生のほうが講師・講義内容を教養学部に提案して、それが認められると正式 の教養学部の全学共通ゼミナールとして開講され、外部講師なら給与(たいした 額ではないですが)がでて、単位も出る(進学には関係ないですが) というもの です。

河野さんは、この自主ゼミ枠を使って、槌田氏と室田氏による講義を企画した わけです。講義の内容自体は全く記憶にないのですが、私は高校生の時にエネ ルギー問題に関する槌田氏の本を読んでいたようで、書いた本人を見ることが できる、というかなりミーハーな興味で見物にいったような記憶があります。

実際にいってみたらそこで一番大きな顔をしていたのが河野さんで、それから 3年ほど、私が卒業研究(実は私は卒業研究では地球温暖化のシミュレーション というのをやっていたのですが)にはまりこんでなんとなくフェードアウトする まで色々なところに引っ張り回されました。

色々なところ、というのは、反原発集会、浜岡原発の見学ツアー、静岡 にある「水車むら」での合宿、厚木での田圃を借りた有機農業実践、と いったものです。

私は大学院に進む時に研究テーマを大きく変えて、地球温暖化というまあなに かしら人類に貢献しそうに一見思える研究から、まるで役に立ちそうにない天 体物理学、恒星系力学をやってそのあとの25年間を過ごしてきました。何故そ のような選択をしたのか、についてはいずれ書きます。

一方、河野さんは一貫して農業と原発の問題に取り組んでこられました。JA に 就職したあと、協同組合経営研究所の研究員から茨城大学の助教授、教授となっ ています。私は河野さんとはもう25年近く連絡もとっていなかったので、最近 の活動がどういうものであったのかは知らないのですが、研究と運動を一体の ものとしてやってきたであろうことは想像できます。

ただ、 3・11以降、河野さんがなんとかして止めようと30年間頑張ってきた原 発事故が、歴史上最悪の原子炉3基のほぼ同時期破壊という形で起こり、大量の 放射性物質をばらまいたことが河野さんにとってどれほどショックであったか は、私などが想像することもできないものがあります。河野さんは 7月にでた「水車むら通信」に以下のような文章を書かれたそうです。

    目を覆いたくなるような農林水産物の放射能汚染の現実を前にして、地元
    産・国産を食べろと学生達に言うことは、私にはもはやできない。自分は
    いったい、何を講義したらいいのだろうか。 
その河野さんが 8月7日に死去されたという連絡がはいってきました。信じられ ない、何かの間違いでは、というのが最初に思ったことでした。でも、葬儀の 日程の連絡まできて、どうも本当のことらしい、と思うしかありません。

昨晩の通夜にはいけなかったのですが、今日の告別式には参列しました。25年 ぶりに見る河野さんの顔は、白いものが目立つようになったとはいえ昔のまま で、それが遺影だと思うと、、、25年あってもいなかった人が亡くなった、と いうことが何故これほど自分にとってショックなのか、まだ自分でも良くわか らずにいます。

河野さんの遺志を継ぐ、なんてことはできるはずもないのですが、 自分に残された時間の中で、やるべきこと、できることをやって いかないといけない、と思います。

ということで、原発事故関係、というより、スパコン関係でない色々なことは こちらに書くことにしようと思います。

今日のところはそれだけ。まだ、あまりちゃんとものを考えられないので。
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